9月の初め。
霧に包まれた山道をひとりで歩きながら、
色んなことを考えた。
聞くところによると。
この山道を登る者には、ひとりひとりに、
狼が付き添ってくれるのだという。
その狼は神様のお遣いで。
もちろん、目には見えない存在。
登山者が道に迷ったり、怪我をしたりすることがないように。
しっかりと守りながら、山頂までの道案内をする。
それが、狼のお役目なのだという。
また、その付き添ってくれる狼の種類も、
ひとりひとり、登山者によって違うのだという。
小さな仔狼から、風格ある老狼まで。
登山者の年齢や、体力や、登山スキルなどに合わせて。
一番ふさわしい狼が、神様から選ばれて、
ひとりひとりに遣わされて来るのだという。
だから、こうしてひとりで霧の中を歩いていても、
僕の前にはその狼がいて、時々こちらを振り返りながら、
道案内をしてくれているに違いない。
それはどんな狼だろうか。
この僕のために選ばれて来てくれた狼。
姿を見ることも、話すこともできないけれど。
気配も感じることはできないけれど。
でもきっと、ただ黙って黙々と歩き続けるのは、
案内する狼にとっても、つまらないだろうから。
時々、一方的に話しかけながら、歩いて行った。
僕の登山ペースは遅い。とても遅い。
ゆっくり、ゆっくりと登っていく。
だから案内の狼は、もしかしたら、
「自分も今までたくさんの道案内をしてきたが、
こんなにのんびり歩く奴も珍しい」
と呆れているかもしれない。
まあ、そう言わないでくれ。これが僕のペースなんだ。
おまけに、昨日は武蔵御嶽の山を歩いてきたんだ。
それで今日は、膝が少し痛むんだよね。
そんなことを、ひとりでぶつぶつ言いながら歩く姿は、
客観的に見たら、ちょっと奇異なものかもしれない。
でも幸い、今日は平日で。
おまけに天気も、あまり良くなくて。
すれ違う登山者は、非常に稀だった。
だから気兼ねなく、
自分のペースで登れるのは良かったけれど。
ちょっと道に迷いそうになることもあった。
さっきも、道が左右に分かれていて。
はて、これはどちらへ行ったものかと、
真剣に悩んでしまった。
なんとなく、右へ登ればいいような気がするけれど。
大丈夫かなあ、行ってみようか。
なんて思っていたその時、
かろうじて、小さな石の道標に気づく。
近づいて読んでみると。
右は雲採山を超へ甲州北都…
左は奥社大日向山道…
なんとも歴史を感じさせる、難しい漢字の彫り物。
一体、いつの時代に建てられたものだろう。
今まで、何人の登山者に道を教えてきたのだろう。
でもとにかく。おかげさまで、この僕も、
左へ進めばいいと分かったのだった。
きっとあの時も、案内の狼が、
「おーい、こに道標があるぞ、読めよ」
と教えてくれたのだろう。
そうして深い霧の山道を抜け、
最後の岩場をよじ登り。
辿り着いた山頂で、ひと息ついて。
記念碑の裏側にある岩に腰掛けて、下界を眺めた。
といっても、見えるのは霧ばかり。
足元にゆったりとたゆたう、霧の海。
晴れていたら、きっと眺めがいいのだろうけれど。
今日は霧。すべてが白い霧の中。
これはこれで、幻想的な風景だった。
帰り道も、深い霧の中。
急角度の岩場を、注意しながら下り。
痛む膝をいたわりながら、
ゆっくり、ゆっくりと降りて行く。
不思議なもので。
同じ霧の景色でも、行きと帰りでは、微妙に印象が違う。
行き着く場所も、全体の距離感もわからず進む、行きの道。
やがて着く場所も、大体の長さもわかっている、帰りの道。
どちらがいいとも、言えないけれど。
案内の狼は、どんな風に感じているだろうか。
そんなことを、一緒に話しながら歩けたらいいのだけれど。
帰り道は自然と、立ち止まることが増える。
それは、疲れているのはもちろんだけれど。
少しでも、感じる何かを記憶に留めておきたいという、
そんな思いが、頻繁に足を止めさせるような気がする。
途中、何度も何度も立ち止まり。
その度に、狼を探していることに気づく。
無意識のうちに、ゆっくりと呼吸を整えて。
この深い霧の中に、何か見えないかなと。
ひょっとして、よく目を凝らせば、
こちらを振り向き、振り向きながら、
一生懸命に案内してくれている狼の姿が、
一瞬でも、気のせいでもいいから、
ほんの少しでも見えないかなと、思ったけれど。
やはり、何も見えなかった。
でも、そういえば。
と、霧の中で思った。
聞くところによると。
人は死ぬ直前になると、魂が肉体を離れて、
自由に動き回れるようになるらしい。
その時には、お世話になった人や、会いたい人や、
行きたい場所に、どこでも自由に行けるのは勿論のこと。
普段は姿を目にすることのできない、
神様や天使のような存在たちにも、
自由に会えて、話ができるようになるのだという。
そうか、だからその時に、会いに行けばいいんだ。
死ぬ前になれば、ちゃんと姿を目にして、
御礼を伝えることができるんだ。
そう気づいた。
だから霧の中、深々と頭を下げて、
狼に約束した。
今は姿も見えないけれど、何も話もできないけれど、
いつかこの先、死ぬ前になったら、必ず会いに来ますから。
今日こうして案内していただいた御礼は、
その時まで待ってくださいね。
そう思ったら、
なぜか急に涙が溢れて、止まらなくなった。
次から次から、涙が流れ続けて。
霧の中を、そのまま歩き続けた。
やはり客観的に見たら、
とてもとても、奇異な光景だ。
やがて、雨で湿った山道は終わり。
コンクリートで舗装された歩道になった。
登山道も、もうすぐ終わりだ。
参道の入り口まで来ると、向こうに土産物屋が見えた。
登り始めたのは朝霧の立ち込める時間だったが、
今はもうお昼時。
道の向こうには、飲食店が立ち並び、
賑やかな人波が見えた。
きっと、狼の道案内も、ここまでだろう。
山道の入り口で、僕は振り返り、
最後にもう一度、深々と頭を下げて、
目には見えない狼に別れを告げた。
ありがとう。
死ぬ時に、また。
なぜかもう、涙は流れなかった。
かわりに、笑顔が浮かんだ。
そうして僕は、この世界へと歩いて行った。
いつか死ぬまで、生きていく世界へ。