これは私が子供の頃に、祖母から聞いた話です。
子供の頃、祖母は私に、色々と不思議な話をしてくれました。
ヒトダマを見た話や、夢の中に出てきた大蛇からお金をもらった話など。
どれもこれも不思議な話で、小さな私は夢中になって聞いた記憶があります。
しかし残念ながら、今ではその内容をあまり思い出せません。
とても不思議で面白い話だったなあ・・・、というおぼろげな記憶はあるのですが。
具体的にどんな話だったかというと、はっきりとは思い出せないのです。
でも、そんな祖母の「不思議話」の中でひとつだけ、今でもはっきりと覚えているものがあります。それが、麒麟(きりん)の話です。
祖母はある日、夜空に麒麟が駆け回っている姿を、はっきりと見たというのです。
それは、夏のことでした。
ある夜、祖母は家の外に出て、庭先で夕涼みをしていたのだそうです。
きっと夏の涼しい夜風を肌に感じながら、星を眺めていたのでしょう。
私の実家は当時、平屋の建物で、敷地の半分くらいが庭になっていました。
庭先に出て周りを見回すと、当時はまだ近所の家もみんな一階建ての平屋でしたから、空を広く見渡すことができました。
庭に立って西の空を見ると、低い山並みが見えます。
子供でも簡単に登れるくらいの山です。あちこちにみかん畑があるので、冬になると山肌に、きれいなみかんの実が見えたりするのですが。
夏は緑の木々が、もこもこと、ブロッコリーのように膨らんで見えます。
その低い山並みが、ちょうど西の空いっぱいに、うねうねと連なっています。
夕暮れ時に庭に立って西を見れば、太陽が山の向こうに沈みます。
そして夜になれば、月が、山の向こうに沈んでいくわけです。
きっとその夜、祖母は静かな虫の音に耳を傾けながら、西の空に暗く横たわる山並みを眺め、その上に輝く星を眺めていたのだと思います。
そしてその時、祖母は、空に光るものをみつけたというのです。
それは、金色の光でした。
何か金色に光るものが、山の向こうから姿を現しては夜空をくるくると回り、また山の向こうに姿を消す。
あれあれ?と思って目を凝らすと、また山の上に光が現れる。
そしてくるくると上空を飛び回る。
驚いてよくよく見ると、なんとそれは4本足の動物で、長いたてがみのようなものをなびかせていたというのです。
麒麟でした。
「キリンビールのラベルに描いてある絵と、本当におんなじだったよ」
祖母はそう言いました。
形は確かに麒麟だったけれど、全身が金色に輝いていたそうです。
その金色に光る麒麟は、山の上の夜空を、シューッ、シューッ、と飛びまわり、やがて祖母が呆気に取られているうちに、山の向こうへ姿を隠しました。
そして、そのまま二度と現れなかったそうです。
祖母はそのまま、しばらくじっと、夜空を見ていました。
あまりにも信じられない光景を目の当たりにして、驚きのあまり、しばらく動けなかったそうです。
しかし、いつまで見ていても、その光はもう現れませんでした。
呆然と庭先に立ち尽くしているうちに、祖母は、だんだん冷静さを取り戻しました。
自分が今見たものは、きっと幻に違いない。
自分は今、幻覚を見たのだ。
冷静に、そう思ったそうです。
実は、私の祖母は、若い頃には看護婦として病院で働いていました。
だから、ちゃんとした医学の専門知識を持ち、物事をしっかりと、論理立てて考えることのできる人でした。
そんな祖母ですから、自分がたった今目にした信じられないものを、「幻覚」として冷静に判断することができたのだと思います。
自分は今、幻覚を見たのだ。
きっと暑さのせいだ。疲れているのかな。
そんな風に思いながら、庭を出て、家の中に入ろうとしたのだそうです。
ところが、その時。
通りを隔てた向かいの家から、男の人の声が聞こえてきたそうです。
それは当時、向かいのFさんのお宅に住んでいらっしゃった、お爺さんの声でした。
Fさん宅のお爺さんが、とてもしみじみとした感じで、こう言うのが聞こえてきたのだそうです。
「いや〜〜、今日はなんとも、不思議なものが見える日だなあ」
その声を聞いて、祖母は、はっきりと分かったそうです。
そうか、Fさんのお爺さんも偶然、外に出ていて、さっきの光を目にしたのだ。
夜空を駆け回る、あの麒麟を見たのだ。
だからさっきの光は、やはり本当にあったんだ。
自分だけの幻覚じゃなかったんだ。
そう、はっきりと確信したのだそうです。
これが、私が祖母から聞いた話です。
なんとも不思議な体験談です。
今思えば、もっともっと、詳しいところを聞いておけばよかったと思います。
たとえば、それは一体いつの話だったのか。これがわかりません。
私の実家が今の場所に建ったのは、昭和40年代と聞いています。
だから、昭和40年代のいつか、ということは確かです。
でも、それ以上のことは分かりません。
もっと詳しく、何年の何月頃の話なのか、聞いておけばよかったと思います。
そうすれば、後で気象データや天文データを照会して、色々と調べることが出来たはずなのです。
でも残念ながら、子供の私は、それ以上詳しく聞くことをしませんでした。
「おばあちゃんの不思議な話」として、自分の中にしまって終わりにしてしまったのです。
せめて、私が生まれる前なのか、生まれた後の話なのか、それだけでも聞いておけばよかったと、今にして思います。
でもこの話は、幼い私に、とても強烈な印象を残しました。
暗い夜空を駆け回る、金色の光。
たてがみをなびかせ、シューッ、シューッと山の上を飛び廻る麒麟。
目を閉じれば、その姿がありありと瞼に浮かぶようでした。
今でも私は、時々実家に帰ります。
そして寝る前に歯を磨きながら、二階の窓から西の空を眺めます。
そこには暗い山並みが、私が子供の頃と何も変わらずに横たわっています。
ひょっとしたら、その山の向こうから、金色の光が現れるんじゃないか。
いつの日か、夜空を駆ける麒麟を見ることができるんじゃないか。
そんな、淡い期待を抱いているのです。
初めて祖母の話を聞いてから、もう40年以上が経った、今になっても。まだ。