ぼっこメモ

メモですから、ほんと。メモです。

この国は、とてもラブリーな国だよ

朝の海岸を楽しんだ後、ホテルに戻ろうと歩いていると、向こうから二人の男性がやって来ました。黒い犬を散歩させています。

私は、その犬を写真に撮りました。

 

すると一方の男性が、犬を指差しながら言いました。

アンドレス」

 

きっと犬の名前ですね。アンドレスと言うのでしょう。

それで、私も繰り返しました。「アンドレス」

 

どうやら、彼は少し英語が話せるようです。

私たち二人はその場に足を止め、少し話をしました。

 

と言っても、別に大した話ではありません。

旅行者と地元の人との、よくある、他愛もない会話です。

 

「どこから来たの?」

「日本から」

 

「チリに来たのは初めて?」

「いや、2回目」

 

「この国の印象はどう?」

「きれいな国だね、ベリー・ビューティフル」

 

うんうん、と彼は嬉しそうにうなずきました。

「そう。この国はとてもきれいで、ラブリーな国だよ」

 

彼の口から出た「ラブリー」という言葉は、この国をとてもよく現しているように感じられました。

確かに、チリというのはとてもラブリーな(可愛らしい)国です。

 

そんな風に簡単な挨拶が終わると、彼はじっと私の目を見つめ、ちょっと意外な事を口にしました。

 

「ねえ、もし今、コインを持っていたら、僕にくれないかな」

 

コイン?

私は意味がわからなくて、彼に尋ねました。

 

「そう、コイン」彼は言いました。「ジャパニーズ・コインでも、チリのコインでもいいよ。もし今持っていたら、僕にくれないかな」

 

私はまだ意味がわからずに、うーん、、、と困惑しています。

彼はコインを、つまりお金をくれと言っている。

これは、物乞いをしているのだろうか?

 

実際、チリの首都サンチャゴでは、街のあちこちで物乞いを見かけました。

交差点で、地下鉄の入り口で、物乞いたちはコインが入ったカップを手に持ち、じゃらじゃらと鳴らして、お恵みくださいとアピールしていました。

 

彼はその物乞いたちと同じように、金をくれと言っているのだろうか?

でも、何か雰囲気が違います。

私をじっと見つめる彼の目はあくまでも優しく、穏やかです。

年齢は私よりもずっと若い。二十代後半か、三十代の初めといったところでしょうか。

真剣な眼差しから、なんとかして自分の思いを、私に向かって正確に伝えたい、そういう気持ちが伝わってきます。

 

まだ戸惑っている私の様子を見て、彼はゆっくりと、こう説明してくれました。

 

「もし今、君がコインを持っていて、それを僕にくれたとするよね。そうしたら、僕はそのコインを家族や友人たちに見せて、価値をシェアできるよ。だからもし今コインを持っていたら、僕にくれないかな」

 

でも、その説明を聞いて、私はますます訳がわからなくなってしまいました。

 

 家族や友人と価値をシェアする?

それは一体、どういうことだろう。いくら考えてもわかりません。 

 

私は混乱した頭を抱えたまま、こう言いました。

「ごめん。今、コインは持ってないんだ」

 

でも、それは嘘でした。

私のポケットには財布が入っていたし、その中にはチリの、ペソのコインが入っていました。

 

しかし、見ず知らずの人の前で財布を取り出すという行為に抵抗があったし、なにしろ、ここは海外だし。

警戒して、咄嗟に嘘をついたのです。

 

私の返事を聞いた彼は、にっこりと笑って言いました。

「オーケー、なにも問題はないよ」

 

そして彼は、私に右手を差し出して来ました。握手を求めているのです。

私はその手を握りました。がっしりとした握手です。

潮風のせいでしょうか。彼の手は、少ししっとりとしていました。

 

彼は私の手をしっかりと握り、じっと目を見つめながら、はっきりとした日本語で、こう言いました。

 

「サヨナラ」

 

私も手を握ったまま、見つめ返して答えました。

 

「さよなら」

 

別れの挨拶が終わると、彼は手を離し、

最後に空手のようなポーズをとって言いました。

 

「オス!」

 

私も笑って返しました。

 

「オス!」

 

そうして彼は後ろを向くと、もう一人の男性の方に向かって走って行きました。

もう一人の男性は、私たち二人が話している間に、ずいぶん離れた向こうまで犬を連れて歩いていたので、彼はそこへ向かって駆けて行ったのです。

 

私も反対を向くと、ホテルに向かって歩き始めました。

 

これが、その時起こったことの全てです。

全部合わせて、ほんの2、3分。

もしかしたら、もっと短かったかもしれません。

 

彼はその、短い時間の間に、私に何かを伝えたかった。

私はそれを、手を伸ばして掴みかけた。

でも結局、うまく掴めずに手を離してしまった。

最後に警戒して、嘘をついてしまった。

 

そんな感じの、やり切れない思いが残りました。

 

その、やり切れなさの正体は何か。

私がそれに気づいたのは、ホテルに戻ってからでした。