部屋に戻ってタオルを干すと、布団を敷いて、ゴロンと横になりました。
夕食まで、まだ1時間ほどあります。ゆっくりと休むことにしましょう。
だんだん、湯治らしい気分になってきました。
うとうとしていたら、あっという間に18時になったようです。
廊下でパタパタとスリッパの音がして、「ご飯ができました」と女将さんの声がしました。
はーいと答えて、食堂へ向かいます。
ガラガラと食堂の扉を開けると、入り口のところでファンヒーターが焚かれていました。
なるほど、確かに少し冷えてるもんなあ、と思います。
テーブルごとに食事が用意され、名前が書かれた紙が置かれていました。
自分のところに座ります。
私の他に、お客さんはもう一人。先ほど、一緒に温泉につかっていた若い男性です。
どうやらこの方も一人客のようです。
つるんとした感じの顔立ちで、中学の時に部活で一緒だったカトウくんに雰囲気が似ています。
心の中で、カトウくんと名前をつけました。
奥から女将さんが現れて、「何かお飲物を用意しますか?」と聞かれまして。
とりあえず今日はアルコールなしでいいやと思い、いえ結構です、と答えました。
そして、これが夕食です。おいしそう!
本当に、美味しかったです。
川魚の味噌焼きも、煮物も、みんなシンプルで素朴な味わいなのですが。
ご飯が止まらなくなってしまいました。
テーブルの小さなおひつに、お茶碗3杯分くらいのご飯が入っていたのですが。
あっという間に平らげてしまい、おかわりしました。
さて、お腹もいっぱいになりました。
そのまま部屋へ戻るのも、なんだか味気ない気がします。
ちょっと外を散歩してみます。
まだ18時半くらいかな、外は明るいです。
緑に囲まれた道をゆるゆると歩き、夕暮れ間近の穏やかな空気を深呼吸します。
坂を少し下り、沢の音がさらさらと聞こえるあたりまで歩きました。
だんだん坂がきつくなるので、これより先まで行くと、戻るのが大変そうです。
回れ右して、旅館へと戻りましょう。
すると、向こうから黒猫がやってきました。
この黒猫も散歩でしょうか。
ずいぶん人懐っこい猫で、ゴロゴロ言いながら寄ってきます。
しゃがみこんで撫でてやると、しきりに体を擦り付けて、私の周りをぐるぐると回ります。
遊びたいのかな、と思いながら、頭や尻尾を撫でてやります。
よーし、よーし。
なんだか一昔前の、ムツゴロウさんのような気分です。
黒猫はひとしきり甘えた後、草むらへ入って行きました。
可愛い猫だったなーと思いながら立ち上がり、ふと足元を見ると、
黒い猫の毛がズボンにびっしり付いています。
ありゃ、やられた。
苦笑いしながら、ぱっぱと毛を払いましたが、これがなかなか落ちません。
まあいいや、と諦めました。
部屋に戻ると、けっこう体が冷えていることに気づきました。
やはりここは、福島の山の中。以外と外は寒かったようです。
こたつのスイッチを入れ、入ってみました。
こたつに入るのなんて、何年ぶりでしょうか。
考えてみても、思い出せないほど前です。
ひょっとしたら、学生の時以来かもしれません。
うーん、あったかい。
やっぱり、こたつはいいなあ。
テレビをつけ、地元のローカルニュースを聞くともなく聞きながら、ごろんと横になります。
畳の部屋に、暖かいこたつ。
天井の木目の模様。
なんだか、小さい頃に家族で行った、祖父母の家を思い出します。
ゆるやかで、リラックスできて。
やっぱり日本人はこうじゃなくちゃ、なんて思います。
やがてテレビでは、7時のニュースが始まりました。
なんと東京では、山手線が何時間も止まったままで、大騒ぎになっているようです。
へえ〜と思い、体を起こしてニュースを見ます。
混乱した駅の様子、街行く人々のインタビュー。
こりゃーえらいこっちゃあ、という感じですが。
でもこうして、福島の山の中で、こたつに入って見ていると、
あまりにも遠く離れた世界の出来事です。
不思議な感じがしました。
ニュースが終わり、動物番組が始まりました。
さて、それではもう一度、温泉に入るとしましょう。
せっかくなので、浴衣に着替えてみます。
やっぱり温泉は浴衣ですね。非日常な感じが、グッと強まります。
それでは、再び温泉へと向かいましょう。
部屋を出て渡り廊下をパタパタと歩きます。
浴室の扉をがらがらと開けると、温泉にはカトウくんがいました。
首までどっぷりとぬる湯に浸かり、じっと目を閉じています。
私も同じようにお湯に入り、目を閉じてみました。
ざばざばと流れる湯の音に耳をすませ、ぬる湯の温かみを感じます。
もう外は薄暗くなってきました。
窓の向こうの緑も、昼間の鮮やかさはなく、落ち着いた感じです。
割とすぐに体が冷えてきたので、沸し湯に移って体を温め、またぬる湯へ。
それを何度も繰り返しました。
しかしカトウくんは動きません。ぬる湯のままです。
じっと目を閉じ、時々湯の中で体を伸ばしたりしながら、ずっとぬる湯に浸かっています。
これは、かなりの達人に違いないと思いました。
「ずいぶん長いこと、ぬる湯に入ってますね。体が冷えませんか?」
そう話しかけてみようかな、とも思ったのですが。
でもカトウくんは、とても落ち着いた感じで、じっと目を閉じています。
邪魔をするのも悪いような気がして、結局、話しかけるのはやめました。
私は1時間ほどで上がりましたが、まだカトウくんはぬる湯のままでした。
やはり達人です。
部屋に戻ると、こたつテーブルの上を、虫がぴょんぴょんと飛んでいました。
大きなコオロギ?と思いましたが、コオロギでもないようです。
とりあえず写真を撮って、後で調べたらカマドウマでした。
寝ている間に踏み潰したりすると困るので、捕まえて窓から外へ出しました。
ぴょんぴょん元気に飛び跳ねるので、なかなか大変でしたが。
この旅館は山の中にあるので、虫は仕方ありません。
そういえば部屋に案内された時、女将さんから、
「窓を開けると虫が入ってきますから、気をつけてくださいね」
と言われました。
でも別に、窓を開けてなくても、ちょっとした隙間から虫が入ってくるようです。
まあ、古い建物ですからね。それもこの旅館の「味」でしょう。
だから小さなお子さんがいる方は、ご家族で来るといいと思います。
子供に、自然との触れ合いをさせることができる旅館です。
さて、カマドウマを逃すと、再びこたつに入ってテレビをつけました。
なんと、山手線はまだ動いていないようです。本当にえらいこっちゃあ、です。
でも私は福島の山の中にいて、湯上りで、こたつに入ってその様子を見ています。
いよいよ不思議な感じです。
そんな感じでぼーっとしているうちに10時が過ぎ、
ニュース番組を見るともなく見ているうちに、だんだん眠くなってきました。
そろそろ寝ようかな。その前に歯を磨かなくては。
そんなことを思っていると、廊下で猫の鳴き声がしました。
ニャーオ、ニャーオ、と何かを呼んでいるようです。
ああ、猫が鳴いてるなあ。
そう思っているうちに、声はだんだん大きく、近づいてきまして。
そしてとうとう、部屋の前まで来ました。
戸のすぐ向こうで、ニャーと声がします。
さっきの黒猫かな?
そう思いながらこたつから出て、すーっと引き戸を開けると、
そこにいたのは茶トラの猫でした。黒猫よりも、ひとまわり小柄です。
茶トラは、開けた戸の隙間からするりと部屋の中に入ってきました。
そして周りを見回して、ニャーと鳴きました。
思いがけないお客様、突然の訪問です。
こたつに入りたいのかな。
そう思って、こたつ布団を持ち上げてみると、茶トラは迷うことなく、するすると中に入って行きました。とても自然な感じです。
こうして思いがけず、猫と一緒にこたつに入ることになりました。
こたつ猫。
それはきっと、日本の象徴のようなものではないでしょうか。
世界は広く、色んな国に色んな猫がいるわけですが。
こたつに入っている猫ほど日本的で、平和で、穏やかなものはない。
そう思うのです。
せっかくなので、歯を磨くのは後にして、もう少しテレビでも見ていましょう。
なんとも幸せな時間です。
猫と一緒にこたつに入るなんて。いつぶりのことやら。
これはもう、小学生以来の出来事です。
しみじみと昔のことを思い出していると、また廊下で猫の声がしました。
ニャーオ、ニャーオと鳴いています。
あれれ、どうしたんだろう。
再びこたつを出て、部屋の引き戸をすーっと開けると、
まるでそれを待っていたかのように、今度は黒猫が入ってきました。
夕暮れの草むらで遊んでいた、あの黒猫です。
またまた、思いがけないお客様です。
クロはこたつの周りをぐるりと一周すると、ニャーと鳴きました。
君もこたつに入るかい?
こたつ布団を持ち上げてみます。
クロはこたつ布団に顔を突っ込んで、中を覗き込みました。
そのまま、じーっと動きません。
中には先客の茶トラがいます。
なにか茶トラと話でもしているのでしょうか。
「ちわ、おいらも入っていいっすか?」
そんな会話をしているのかもしれません。
茶トラとクロの関係は、どんなものなのでしょう。
私には想像もつきません。
こたつ布団に頭を突っ込んで、じーっとしていたクロは、
結局こたつに入りませんでした。
茶トラに遠慮しているのでしょうか。
まあいいや、よしよし。
私がこたつに入ると、クロは体をすり寄せて、膝の上に乗りました。
こたつの中に茶トラ、膝の上にはクロ。
豪華な取り合わせです。
さて、どうしたものか。
もう寝ようとしていたのに、動けなくなってしまいました。
クロは膝の上でゴロゴロと喉を鳴らせています。
なんとなく困ったなーと思いながら、よーしよーし、と撫でていると、
やがてクロは気が済んだようで。膝から降りてくれました。
トコトコと、引き戸へ向かいます。
おお、お帰りですか。
戸を開けると、クロはニャーと鳴きながら、廊下へ出て行きました。
どこかまた散歩に行くのでしょう。
やれやれ。
それでは、私ももう寝ることにしましょう。
歯ブラシを持って部屋を出ると、共同の洗面所で歯を磨きます。
シャコシャコ。
なんだか学生時代の、合宿所みたいな感じです。
壁にかかった鏡で左目を見ると、まだしっかり充血していました。
大丈夫かな、一晩寝れば治るかな。
口をすすぎ、長い廊下をパタパタと歩いて、部屋に戻ります。
長い一日でしたが、ようやく終わりです。さあ寝るぞ。
しかし、こたつの中にいる茶トラはどうしましょう。
うーん、こたつから追い出すのも可哀想です。
このまま朝までずっと、こたつにいるのかな。
でもそしたら、中でオシッコとかしちゃうんじゃないだろうか。
どうするべきか、しばらく考えましたが、正解がわからず。
まあいいや、と思い、とりあえずこたつのスイッチは入れたまま、
部屋の灯りを消して、私は布団に入りました。
おやすみなさい。
そうして、うとうと、うとうと。
こたつの茶トラをなんとなく気にしながら、
それでもようやく、浅い眠りについたかなーという感じの時に、
ニャーオ、ニャーオ、と猫の鳴き声がしました。
おぼろげな意識の中で、ふと目をやると。
茶トラが部屋の引き戸を、カリカリと引っ掻いている姿が目に入りました。
部屋から出たがっているようです。
おお、よしよし、出て行くか。
私は半分寝ぼけた感じで起き上がり、戸を開けました。
茶トラは、すっと廊下へ出て行きます。
ああ、よかった。
これで気兼ねなく寝れます。
私はこたつのスイッチを切り、再び布団にもぐりこみました。
あー、やれやれ、です。
今度こそ、おやすみなさい。
そうして今度はぐっすりと、深い眠りに落ちていった。
筈だったのですが。
しばらくすると、まどろみの中、また猫の鳴き声がします。
初めは夢かと思ったのですが。
どうもまた、廊下で猫が鳴いているようです。
私は再び起き上がり、引き戸を開けました。
待ち構えていたように、茶トラが入ってきます。
ありゃ、お前、戻ってきちゃったのかい。
またこたつに入るのかい?
こたつ布団を持ち上げてみると、するすると中に入っていきます。
完全に元に戻ってしまいました。やれやれ、です。
こたつのスイッチを入れて、私は自分の布団に戻りました。
さて、どうしましょう。
このまま寝たら、また後で、茶トラは部屋を出ようとして戸をカリカリするかもしれません。私は、また起こされてしまうことになります。
うーん、どうしよう。
しばらく考えた末、部屋の引き戸を少し開けておくことにしました。
茶トラが出たくなったら、いつでも出ていけるように。
また戻りたかったら、いつでも戻れるように。
もうここは、バリアフリーにしましょう。お猫様ファーストです。
そう思い、引き戸を10センチほど開けました。
ちなみに、この旅館には、部屋の鍵というものがありません。
だから、鍵をどうしようか、なんていう心配は、無用です。
もともと無いのですから。
きっと日本の旅館って、昔はみんなそうだったんでしょうね。
さて、これでいいでしょう。
もう茶トラのことは気にせず、ぐっすり寝れるぞ。
そう思って、再び布団にもぐり込みました。
そうして今度こそ、ようやく深い眠りについた。
と思いきや。
やはりなんとなく、茶トラのことが気になっていたんでしょうね。
少し後で、何か気配を感じて、目が覚めました。
布団に入ったまま、横に目をやると、豆電球を灯した明かりの中で、
こたつから出た茶トラが、引き戸の隙間から廊下へ出ていく姿が見えました。
ああ、やっぱり出て行った。戸を開けといてよかったな。
おぼろげな意識の中でそう思い、また眠りに落ちたのでした。
これで、第1日目の終了です。