朝湯を終え、部屋に戻ってこたつを覗いてみると、
茶トラはいなくなっていました。
目を覚ましてどこかへ出かけたようです。朝ごはんかもしれません。
私はひとりでこたつに入り、ごろんと横になりました。
さて、今日はこれからどうしましょうか。
朝食を済ませ、朝湯に入ったら、もうすることはありません。
しばらくぼーっとしていると、パタパタと廊下を歩く足音が聞こえ、
女将さんがやって来ました。
お茶とお湯ポットの交換だそうです。なるほど。
こたつテーブルの急須を渡し、お湯が入った新しいポットを受け取ります。
おやつにどうぞ、とコーヒー牛乳も貰いました。うれしいサービスです。
「カフェオレ」なんておしゃれに書いてありますが、
「コーヒー牛乳」のほうがいい響きですよね。
では、さっそく飲んでみましょう。
ガラスビンなのがいいですね。うん、おいしい。
ビン入りの牛乳を飲むのも、ずいぶん久しぶりです。
やっぱり牛乳は、ビンのほうがおいしいですよね、絶対に。
ビンには「ふくしま」の文字が入っていました。
コーヒー牛乳を飲み終え、こたつでぼーっとしていると、
11時半になりました。
そろそろ、お昼の時間です。
旅館では、もちろん頼めば昼食も出してもらえるのですが。
私は頼んでいませんでした。
レンタカーがあるので、山を降りてどこかでお昼を食べようと思います。
せっかく福島まで来たんですからね。
というわけで部屋を出て、車に乗り込みます。
エンジンをかけて、出発です。
朝ぶらぶらと散歩した細い道を、ゆっくりと進み、
ゆるゆると続く坂道を抜けますと、
そこから先は、急なカーブが続く細い山道に入ります。
昨日登ってきたその道を、あとはひたすら、下るだけ。
少し進んでは、急カーブ。
また少し進んでは、急カーブ。
その繰り返しです。
昨日、登って来た時には、久しぶりのドライブだったので、
緊張でガチガチだったのですが。
今日はそれでも、多少は坂道に慣れたようで。
なんとなく、周りの景色を楽しめるだけの余裕が出てきました。
せっかくなので、車の窓を全開にし、
山の空気をいっぱいに吸い込みながら、
周りの緑に眼を奪われるようにして、急な坂道を下って行きます。
そうして、いくつかのカーブを回り、少し進んだところで、
私は何か、はっとして、車を止めました。
サイドブレーキを引き、エンジンを切ります。
辺りはしんとした空気に包まれました。
そこは、緑のトンネルでした。
道の両側から木々の枝がぐーっと伸びて、
緑のトンネルのようになっていました。
きれいだな。
そよ風が葉っぱを揺らし、
車の窓から流れ込んで、頬を撫でます。
さらさら、さらさら。
車のシートにもたれて、その音を聞いているうちに、
いつか、これと同じ景色を、前に見たことがあるような。
そんな気がしました。
いつ?どこだっけ。
じっと記憶を辿っていると、わかりました。
スコットランドの、エアという町です。
ああ、あの時と同じだ、と思いました。
それはもう、ずっと昔。20年近くも前の話です。
一人で訪れたスコットランド。
エアという名の、田舎町で。
ある日レンタサイクルを借りて、気ままに走り回っていると、
道が森の中に続いていました。
季節は、夏。確か7月でした。
初夏の澄んだ日差しが森の木々を照らし、
緑をとても鮮やかに浮かび上がらせていました。
そうして走っていた森の道で、私は自転車を止めたのです。
そこは道の両側から木の枝が伸びて、空を天井のように覆っています。
まるで、大きな緑のドームのようでした。
私は自転車を止め、その緑の中に、じっと佇みました。
時が止まったような、しんとした空気の中で、
やわらかく頬を撫でて通り過ぎる風を感じていました。
ああ、あの時と同じだ。
福島の、細い山道で。
レンタカーのシートにもたれて。
同じように、初夏の緑と風の中で。
私は20年前のスコットランドを思い出していました。
エアという、あの海沿いの町。
もう二度と行くことはないであろう、あの場所。
あの時は、それからどうしたんだっけ?
車のシートに腰掛けたまま、記憶を辿ります。
そうだ、森の道をさらに自転車で進むと、町境に出たんだ。
そこには、一つの看板が立っていました。
「WELCOME to AYR」
ようこそ、エアへ
緑に溢れた夏の光の中で。
その看板は、ひっそりと控えめに、
しかし力強く、そこに立っていました。
まるで、すべてを肯定し、すべてを受け入れるように。
ひとしきり、昔の記憶に浸ったところで、私は我に帰りました。
ここはスコットランドではありません。
福島の山道です。
私が走らせているのはレンタサイクルではありません。
トヨタのレンタカーです。
でも今、目の前に広がる緑の天井は、
20年前のスコットランドの緑に、そのまま繋がっているような気がしました。
傍に目をやれば、すぐそばに、
まだ30代の若い自分が、自転車を止めて佇んでいるような、
そんな気がしました。
もちろん、それは単なる錯覚なのですが。
私は頭を振りました。
どうも、今の自分が、今の自分自身に、
うまく馴染めなくなってしまったようで。
これ以上じっとしていると、どこか違う世界へ行ってしまいそうです。
私はハンドルを握り直し、キーを回しました。
スターター音が響きます。
エンジンの振動が、私を少しだけ、
現実の世界へと連れ戻してくれたようでした。
とにかく、前へ進もう。
車は緑のトンネルを離れ、再び走り出しました。
そして、細く細く曲がりくねる山道を、慎重に下って行きました。